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パチンコ依存症者やその家族の嘆きや悲しみは、人的に生み出されたものなのだ。


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パチンコをしない人やパチンコを嫌いな人には、

パチンコの恐ろしさは分からない。

パチンコをやったことがある人でも、パチンコで負けたことのある人でも、

普通にやって、ほんの少しだけ負けたことがあるくらいなら、

パチンコの恐ろしさは分からない。

だから、そういう人は、

今後もずっと

パチンコの恐ろしさに遭遇しないで暮らせるように祈ってやまない。



パチンコ屋の店員も、普通に勤めているだけなら、

パチンコの恐ろしさに触れることはないかもしれない。

ただ、パチンコ屋の店員もパチンコ屋の仲間だから、

依存症を最前線でつくり出していることを自覚してもらわなければ困る。


いつも、地獄は、すぐそこにあるのだ。



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大手のパチンコ屋の店員の顔は、のっぺり顔が多い。

のっぺり顔というのは、無表情ということだ。

目だけは、ギラギラしているが、顔は、彫刻のように硬い。

常につくり笑いをしているものの、目が笑っていないので、冷たさしか伝わってこない。


彼らが、トイレに行って、手を洗ったり髪の毛をなでたりする姿に偶然出くわすことがあった。

そんな時の彼らは、普通の顔をしているように思えた。

トイレ掃除以外のトイレだけが、一瞬だけ人間に戻れる場所なんだろう。


パチンコ屋の店員にも生活があり、普通の喜怒哀楽があることは、認めよう。

しかし、

パチンコ屋の経営者やパチンコの利得者に、普通の生活や普通の感情があるとは思えない。

明らかに陰の勝者である彼らは、私たちの住む普通の世界にはいない。

暑くもなく、寒くもない場所で、普通の世界を見下し、高級で物質的な笑い顔をして「生活」している。


若い頃、方丈記を読んだことがあった。

方丈記のなかに、「養和の飢饉」という章があった。

その地獄のような情景を今でも覚えている。

人間の世界ではない地獄が描かれているが、今の私には、パチンコとパチンコを取り巻く世界のように思えてどうしようもない気持ちになる。

少し長くなるが、下に引用する。

時間が許せる方は読んでほしい。  現代語訳である。

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また養和ころだったか、年月が久しくなってよく覚えていないが、
 二年の間、世の中が飢饉となって、驚くほどひどいことがあった。
 春・夏に旱魃(かんばつ)、
あるいは秋には大風・洪水など悪いことが続いて、
 穀物はことごとく実らない。
かいもなく春に耕し、夏に植える仕事だけあって、
 秋に稲刈りをし、冬に収穫するにぎやかさはない。

このため、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を出て放浪し、
ある者は家をかえりみず山に住む。
さまざまな御祈祷がはじまり、
 特別な秘法などが行われるが、まったく効果がない。
 都のならわしとして、何事も田舎に頼っているのに、
 何も運ばれてこないので、体裁をとりつくろっていられない。
がまんできず、さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、
 誰も目にとめようとしない。
たまたま交換する者は、金銭の価値を軽くし、穀物の価値を重んじる。
 乞食は路上に増え、悲しむ声は耳に充満した。


前の年は、こうしてやっとのことで暮れた。
 翌年は立ち直るだろうかと思っていると、
 立ち直るどころか、その上に疫病までが重なって、
いっそうひどい状況となり、何もかもだめになった。
 世間の人々は皆飢えきっており、日が経つにつれて行き詰っていくありさまは、
 「少水の魚」のたとえにも等しい。
ついには、笠をかぶり、足を包んで、よい身なりをした婦人までが、
 一途に家々に物乞いをして歩いている。
このように困窮した人々は、
 今歩いていたかと見れば、いきなり倒れてしまう。
 土塀の前や道端には、飢え死にした者らの数が計り知れない。
 死体を取りかたづける術もなく、
 死臭があたり一面に充満し、腐って変わっていく顔や姿は、
むごたらしくて目も当てられないのが多い。
まして、河原などは死体の山で馬や牛車が通れる道さえない。
 身分の低い農夫や木こりも力が尽き果て、
 薪さえ乏しくなっていき、
 頼るところがない人は自分の家を壊し、それを市に出して売る。
それでも一人が持ち出して売った価は、
 一日の命をつなぐのにさえ間に合わないという。
けしからんことに、そういう薪の中に赤い丹の塗料がつき、
 金や銀の箔などが所々にある木がまじっていたので、
 調べてみると、どうしようもなくなった者が古寺に行き、
 仏像を盗み、堂の中の仏具を壊して取ってきて、
 割り砕いて売り出したという。
 濁りきった末法の世に生れあい、このような情けない行いを見てしまった。


また、しみじみと感動することもあった。
お互いに離れられない夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。
なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、
ごくまれに手に入った食べ物も、相手に譲るからだ。
だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。
また、母親の命が尽きているのを知らないで、
なおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあったそうだ。
 仁和寺にいた隆暁法院という人は、
これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、
 死体の首を見るたびに、
 額に阿字を書いて仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。
 死者の数を知ろうと、四月五月の二か月の間に数えたところ、
 都では、一条から南、九条から北、
 京極から西、朱雀からは東の路ばたにあった死体は、
 全部で四万二千三百あまりあったという。
まして言うまでもなく、その前後に死んだ者も多く、
また、賀茂河原・白河・西の京、
その他もろもろの辺地などを加えていけば、際限もなかろう。
まして、日本全国となると見当もつかない。

 崇徳天皇の御代、長承年間に、
これと同様な前例があったとは聞いているが、
 過去のことで、具体的にはわからない。
 今度のは、自分の目で直接にみたことで、実に稀有のことであった。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027879930

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方丈記の「養和の飢饉」が、パチンコ依存症者の心の世界や、家族の嘆きと重なってきて泣きそうになってくる。

「養和の飢饉」は、自然界のつくりだしたものだが、

人々の荒れた生活や嘆きは、パチンコ依存症者やその家族の嘆きと同質なものであろう。


しかし、


「養和の飢饉」は、自然界のなしたことだが、


養和の飢饉に匹敵する パチンコ依存症者やその家族の嘆きや悲しみは、


日本のパチンコ業界が、人的に生み出したものなのだ。


パチンコの人的な害を、決して、許してはならないのだ。


人的に生み出されてたものなのだから、

人の力で、みんなの力で防ぐことができるはずである。


(今日は、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。)


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今日も、パチンコに行かなかった自分をほめてやるといい。

パチンコをしないということが、どれほど人間の心を豊かにすることか。

パチンコ屋に行ってはいけない。

今日も、パチンコに行かなかった自分をほめてやるといい。


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